「誰でもよかった」なら「お前でもよかった」のではないか?〜想像力の精度はどこまで高められるのか〜
ニュース映像で、テロに遭遇した被害者の遺族が、
顔を歪ませ何かを叫んでいた。
彼女の気持ちを考えながら、僕も顔を歪ませ悲しくなる。
でも、次の瞬間、バイトルのCMが入る。僕の思考はそこで一時停止。
被害者の無念さと、遺族たちの悲しみの奥底にまで考えは至らず、
この事件の本質を把握もせずに、
僕の思考は、少しの違和感を覚えながらも、他へと移る。
そしてまた、時間を経て、やり残した宿題に手をつけるように
考えはじめる。
自分も現実的に、被害者になる可能性もあるし、遺族になる可能性もある。
もっと言ってしまえば、加害者になる可能性だってある。
無差別殺人なんて考えにくいが、交通事故で人の命を奪ってしまう
なんてこと、あり得ないなんてとても言い切れない。
それぞれの立場で稚拙な想像を巡らせていたら、
日本で起こった最大級のテロで、結婚3ヶ月の夫を失った
ある奥さんのインタビュー記事を思い出した。
事件から数年経過した後のインタビューだったと思う。
愚問ですが、という前置きの後、
「犯人は憎いですか?」というインタビューアに、
彼女は答えた。
「もちろん憎い。けれど、彼の声や、彼の表情のひとつひとつ、
そして、彼との想い出を少しづつ忘れて行ってしまう自分は、
もっと憎いし、悔しい。」
そして、彼女は眠りにつく前に、旦那さんの写真をじっくりと眺めてから床に着く。
その後、暗闇の中に手探りで、思い出しながら、旦那さんの輪郭をつくり、頬の感触を確かめ、鼻の高さを両手の指先で感じる。この動作を毎日の日課にしている。でも、少しずつ、細部が曖昧になって行くのだと話した。
想像力は、ここまで思い至るだろうか?
実際にその立場に立たされないとわからない事なんてたくさんある。
でも、だからこそ想像力を鍛え上げ精度を高めないといけないのではないだろうか?
自分の欲求を満たすために無差別に無自覚に人の命を奪う人がいる。
「誰でもよかった」なんて短絡的に言ってくれるな。
命を奪われた“誰か”は、別の方にとってみたら、
かけがえのない“誰か”なのだ。何度でも呼び続けたい大切な名前もある。
命を奪うことは、その命が築いた沢山の愛おしい物語も奪うことだ。
やがて犯人は事の重大さに気付くかもしれない。
しかし、「自分が憎い」と答えた彼女の感情は絶対に理解できないだろう。
ただ、それが許せない。
そして、自分も少し戒めてみる。知らないうちに誰かを傷つけないように。